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2004年5月

第七番 光明寺 -再生-

ある晴れた日、平塚にある落ち着いた佇まいの古刹へ。仁王門の金剛力士像は関東で最も古いものであり、欅の一木造りの像は、ベテランの年季から生み出される威厳を感じさせる。

大きな鐘を撞くことが出来るようになっているので、心を込めてゆっくり、三度ほど鳴らす。心が落ち着き、また引き締まる。

観音堂の外陣に上がり、靴を脱いで参拝すると、立派な厨子に安置される聖観世音菩薩。一間厨子の素晴らしさと観音さまの美しさに暫し見とれた。この寺は小さいながら、大聖歓喜天や七福神が祀られる歓喜堂、文殊・普賢堂など見るところが多い。

次の寺へ向かうバスを待つ間、近くの金目川に架かる橋から川面を見下ろし、しばらく眺める。一瞬一瞬その表情を変える水の流れを見ていると、日頃のわだかまりが流れ去ってゆく。ストレス解消や癒しの為のメソッドは色々とあるのかもしれないが、人は、常に自然と共に在ればよい。それだけのことである。

一寺ごとに生まれ変わり、生きるための光明を見出し、また次の寺へと向かう。そしてまた、新しい人生が待っている。

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謎の「ウヌザタ」

仕事で出かけた帰りに沖縄物産の店を見かけたので立ち寄ってみた。異国の情緒を感じさせる見慣れない食材や菓子があふれる店内で、「ウヌザタ」なるモノを発見。透明のビニール袋に、土色の小さな塊が20個ほど入っている。菓子の棚に分類されているようなので、それらしいモノだろうと思ったが、なにしろこの名前に惹かれる。なんじゃい、ウヌザタって。

他の商品に比べて少々お高い気もしたが、頭の中からウヌザタという名前が離れず、どうしても気になって買ってしまった。店の人にこれが何なのか尋ねようかとも思ったが、あえて訊かずに食べてからのお楽しみとすることにした。まさか、食べものではないということはないだろう。いや、食べものであることを確認したわけではないのだが。

帰路の電車の中、「ウヌザタ…ウヌザタ…」と頭の中でフレーズが巡っていた。はっ!?まさかこのウヌザタ、中から幼虫が孵化したりしないよな…と思ったが、とりあえず帰宅するまで孵化することはなかった。

結局、食品かどうか確認せぬまま口に入れてみると…あまっ!
これは…砂糖の塊…か?黒糖のような味で、自然な甘みとほんのりとしたほろ苦さが体に良さそうでもある。よく味わうと優しい味で、ほっとする。和風ミルキーと言えなくもない。お?「ザタ」は「砂糖」のことか?そういえば、沖縄のサーターアンダギーは砂糖揚げ饅頭という意味か。では「ウヌ」は?時代劇で「越後屋、ウヌも相当の悪よのぅ、、、」「いえいえお代官様こそ、ぐふぇふぇふぇ、、、」という例のウヌか?んなわけないか。「ウヌ」の意味はとりあえずよしとする。分からないことを分からないままにしておくのも、また一興なのである。とりあえず、明日仕事が終わったら、またウヌザタでほっとしよう。

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ウヌザタ。 Photo by AH-K3001V

メカブに砂糖を入れると…

先日、納豆に砂糖を入れて混ぜるとネバリが増す、というのを実践して、かなりの成果を見た。それを良いことに、今回はメカブに砂糖を入れて混ぜてみた。

すると…納豆の時ほどではないにしろ、ネバリが増した。ただ、混ぜるうちに泡が立ちすぎて、見た目によろしくない。味もそれほどよろしくない。というか、食べ物で遊んでいるようで、なんだか悪い気がしてきた。

試行錯誤もよいが、普通のことを普通にやっていくことの大切さを感じた。
何はともあれ、今日の食事に感謝、である。

赤丸スペシャル@一風堂(横浜)

九州生まれの豚骨ラーメンの店。珍しく、さほど行列せずに入れた。赤丸スペシャルを粉おとしで注文。食べ始めて後悔。しかし決してケチをつけるわけではなく、今後の注文の仕方の参考になった。

粉おとしとは麺の硬さのことで、バリカタのさらに硬め。つまり茹で時間がかなり短く、すなわち麺の温度が低いのだ。スペシャルは多くの具をトッピングを載せているため、普通のラーメンより温度が下がってしまう。それに加えて麺を粉おとしにすると、普通よりはっきり分かるほどに温度が低くなる。もちろんもともと好きな味なので、ズズッと一気に食べてしまうのだが。

美味しい物を美味しく食べ、人生を愉しむためには、経験と向上心と努力が必要なのだ。

第六番 長谷寺 -自然-

飯山の観音さんを目指すには小鮎川の清流を渡り、桜並木のゆるやかな坂道を登ってゆく。この日、桜はもうほとんど散っており、葉桜の先端に僅かに残るのみであった。しかし、桜の季節以外の方が静けさを感じてゆっくり出来るのかもしれない、と思うことにした。

格調高く美しい観音堂の裏山は、ハイキングコースになっている。自然の緑の中を歩くのは気持ちがいい。このような自然がいつまでも残って欲しい。また、自然を守ってゆかなくてはいけない。山頂まで途中少々の難所はあるが、三十分ほどで山頂に着く。快晴の日には相模湾や江ノ島、横浜や新宿まで見えるとのこと。この日はすっきりとした晴れではなかったため、遠くの景色は鮮明には楽しめなかった。また今度来るときのために絶景は残しておこう、と思うことにした。

ところで、飯山の名物はタニシだそうで、参道にもタニシ料理を出す茶店があった。むむと思案した上結局入らなかったが、果たして美味しいのだろうか。自然を守るため、タニシには手を出さないことにしよう、と思うことにした。


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第五番 勝福寺 -誓願-

閑静な住宅街の中に建つ落ち着いた雰囲気の古刹。樹齢千年と伝えられる境内の大銀杏も見事である。秋には素晴らしい黄金色を見せてくれることだろう。

本尊の十一面観世音菩薩は三十三年に一度のご開帳。次回は平成二十六年の予定である。観音堂には極彩色が施された欄間彫刻があり、鳥体人頭の像が雲海を羽ばたいている様は異界への想像力をかきたてられる。

寺伝によれば、二宮尊徳はここで旅の僧が観音経を奏上するのを聞いて感激し、一生の誓いを立てたそうである。自分は…どんな心で生きてゆくのか。一生何をしていくのか。

もしも誓いと違う生き方をせざるを得なくなったらどうするか。…その時は、また誓い直し、生き直せばよい。人は何度でも生き直すことが出来る。暮らす国や環境が変わったとしても。

迷わず、遠慮せず、自分の道を行くだけである、と今は思う。

納豆に砂糖を入れると…

スーパーで500gのヨーグルトをよく買う。酸っぱさを味わいながら食べたいので付属の砂糖は使わず、いつも余ってしまう。余ったヤツをどうするか。それが問題だ。

以前、納豆に砂糖を入れて混ぜると粘りが増す、というのを聞いたことがあったので挑戦してみる。結果は…かなりのネバリ。ヤワな割り箸だったら折れてしまうのではないだろうかという位の引き。砂糖一袋では入れ過ぎか。しかも、納豆がナットウキナーゼ1.5倍という製品だったので、かなり強引だった。写真を撮っておこうかと思ったが、えぐいので止めた。

血がサラサラになりますようにっ。

ギョウザカレー@らっきょ(関内)

スープカレーが流行ってからどれくらい経つでしょう。かなり人気があったスープカレーの店がなくなっていたりということもあったので、やはり大衆はお馴染みの一般的な普通のカレーに回帰してゆくのでしょうか。定番は強しということなのかもしれませんね。そんな中頑張っている「らっきょ」。根強い人気です。

今回はギョウザカレーを注文。スープ状のカレーに入った揚げギョウザを頬張ると、パリグニャっという独特の食感。ん。嫌いじゃないですね。さらりと完食。この店のメニューには色々なトッピングがあって面白いです。お気に入りは納豆おくらカレー。サラサラ感に程よい粘りが加わり、新しい食の世界への扉が開かれるのです。辛さは、自分にとっては大辛でふつう位。限界に挑戦してみたい気も…。

店員さん、なんかちょっと元気なさそうだった。カレー食べて元気になって欲しいな。それともカレー作りに疲れてしまったのでしょうか。
さてさて、次回はズッキーニにしようかなっ。カレー店巡礼も計画せねば。

ベンガルカレー@デリー(上野)

老舗のカレー屋、デリーの上野本店。雑誌などでもとり上げられる有名店だが、決して気取らず入りやすい店。国立博物館で「空海と高野山」展に行った流れで久々に入った。ほとけのルーツ、インドの味を感じることでより観音への理解が深まるかも…というのは強引か。

今回はトマトの酸味が爽やかなベンガルカレーを。さらっさらソースにピリッとスパイス。ちょっと固めのご飯に合うんだわこれが。疲れた体に沁み込んでゆき、ふわっと元気が出てくる。本場の味だと思うのだが、日本人の味覚にも合うように作られている。デリーカレー、インドカレーもかなりの美味さ。いずれ激辛のカシミールやチキンバリカレーも食べてみたい。

そして上野店にしかないタンドリーチキンティカがまた美味いんだわ。こちらは鶏肉をヨーグルトとスパイスに漬け込んでからローストした、インドの代表的な鳥料理。柔らかい鳥肉は香ばしく、ソースと絡めて食べると口の中に幸せがほわっと広がって来る。つけあわせのインド風ポテトサラダ、アルブルタも後を引き、いつまでもこの良い気分に浸っていたくなるのである。

さて、美味しいカレー店の巡礼にも出掛けようか。

増長天と邪鬼

快慶の増長天について前回触れたが、自宅にも増長天がいたのを思い出し、ご登場いただいた。画像は鉾を持つ東大寺戒壇院タイプ。「空海と高野山」展の快慶による高野山式では剣を持っていた。表情といい、戦士の装束といいどの部分を見ても格好良いのであるが、気の弱い私はつい踏まれている邪鬼に同情してしまう。はっ、もしやこれは自分の中の邪心を自分自身が擁護しているということか?

心理学の一説によると、腰に手をあてているということは、身体的にも心理的にも準備が整っていることを表すらしい。また、自分にかなりの自信があることも表すであろう。増長天は、邪心なんかに負けないぞっ!いつでも迎え撃つ準備は出来ているぜっ!という強い心を表しているのか。必要なときに増長天に変身出来たらよいのだが…。

しかし、腰に手を当てるこのポーズ…右手に持っているのが牛乳ビンだったら、かなりの親しみを覚えると思うのだが…スミマセン。妄想です。


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「空海と高野山」

巡礼話からちょっと反れるが、東京国立博物館で開催された「空海と高野山」展の感想を。と言ってもお気に入り展示のメモだが。

・恵光童子像、制多伽童子像(運慶)
本展示のポスターを飾る代表的な像だけあり、ひと際目を引いた。どちらも目力が強く、また深い精神性を感じる。肌質のしっとり感と強い目との対比が印象深い。

・増長天(快慶)
 腰のひねりでこれほどの躍動感を演出するとは。千手観音とか十一面観音のような身体的特徴を持つ人は歴史上いなかったと思われるが、四天王って、もしかしたらこんな人いたかもしれないし、実際に出会ったら相当な迫力だろうと思う。像を見ていると自然と顔真似をしてしまったが、ふとわれに帰り、変な人だと思われていないか気になってそそくさとその場を去った。凡人なり。

その他、執金剛神立像の異形ぶりにも驚かされた。観音ファンとしては聖観音造立願文や十一面観音の儀軌を見ることが出来たのも嬉しかった。今回の思わぬヒットのひとつは狩野探幽筆による釈迦三尊像。釈迦ではなく、脇侍の文殊菩薩にまいった。女性として表された菩薩は、髪の毛のサラサラ感が妙に色っぽく魅力的。面持ちが、その昔お付き合いしていた人にどこか似ていた。狩野探幽、ハマりそう…。

帰路、スーパーで高野山金胡麻豆腐を買って帰る。つくづく影響されやすい私。吉野葛を使用した滑らかな舌触りの胡麻豆腐は香り芳しく、こく深い美味しさ。みそだれを付けていただくと、豊かな風味が口の中にほわりと広がる。むむ、これもまた高野の秘宝か。これはいつの日か必ず高野に行かなくては。

第十三番 浅草寺 ~憧憬~

同じ日、四月八日。今まで何回も訪れている浅草寺であったが、巡礼の札所としては初めて。またお釈迦様の誕生祝の日に来るのも初めてであった。お釈迦様の幼少期の像に甘茶をかけてお祝いし、今年の初詣を思い出していた。

正月、なぜか浅草寺に初詣に行きたいと思った。人込みは苦手なのだが、行かなくてはいけないような気がしていた。しかし、特別大きな夢や希望を持つわけでもない小市民。本堂で今年一年の健康でも祈って帰るつもりだった。

…のだが。本堂で思わず脳裏に浮かんだ言葉は、「観音さまになれますように」だった。

その時は、なぜそんな事を思ったのか判らなかった。そして、再度訪れて考えると…やはりよくは判らない。それこそなんとなく、だったのである。しかし、改めて考えた上でのひとつの答えは…「こんなに多くの人が慕って訪ねてくる観音さまが羨ましかった」のではないか、ということである。恐れ多い考えであるが、自分の正直な気持ちではあったと思う。多くの人に好かれたいと願っている自分、そしてそれがなかなか叶わないことを認めている自分…色々な自分の思いが重なり、観音さまになりたい、という言葉が浮かんだのではないだろうか。

何となく始めてしまった巡礼ではあるが、自分は、どうしたら観音さまに近づけるのかを追求したいのだろうなと思う。全く、自分の心ほど分からないものは無い。しかし、とにかく札所を巡ってゆく中で見えてくることもあるだろう。時間をかけても三十三ヵ所を廻って行きたい。そして、巡礼を続けるうちに自分の心の中にどんな変化が起こるのかを見てゆくことも楽しみの一つだと思えるようになった。

それにしても、自分の物心の幸せばかりを追求しているようでは、観音さまへの道は遠いな、と思った。帰り道、仲見世のにぎわいを眺めながら、街の人々にとっての喜びとは何だろう、人類にとっての幸せとはどういうことだろう、と大きなことを考えてみながら、麗らかな春の東京を後にした。


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第十四番 弘明寺 ~慈愛~

次の日。四月八日。花祭。この日、お釈迦様の誕生祝が多くの寺で執り行われる。この日にどの寺を回るか。順番通りに一番から三十三番まで回らなくても良いことであるし、さて。考えた挙句、いやそれほど考えもせずほぼ直感で二寺を巡ることとした。この日の二寺を選んだのは、賑やかさの中に身を置いてみたかったからかもしれない。

まずは弘明寺。横浜市営地下鉄弘明寺駅から、商店街となっている表参道を歩いて行く。山中などの自然の中にある寺も厳かで良いが、街中にある寺も庶民の信仰を集めてきたことが見て取られ、感慨深いものがある。

運慶作の見事な仁王が安置される仁王門を潜り、石段を上りつめると観音堂。堂内の本尊十一面観音立像は、行基が一刀三礼で刻んだといわれる有名ななた彫りの観音像である。高さ約1.8mの像はケヤキの一木造りで、平安時代の作らしい。

彫り跡をそのまま残した素朴な像を眺めていると、赤ん坊を抱いた母親が観音像に近づき、お祈りを始めた。母親の真摯な姿を見た観音さまの微笑みが少し増したような気がした。するとそこにひとりの老婆が突然現れ、赤ん坊を見ると「あー観音さまー。どうかこの子にお恵みをお与えくださいー!こんなかわいらしい子がいますか、まぁほんとにねぇー。観音さま、よろしくお願いします~~~!」と声を上げた。母親と特に関係のない老婆の突然の登場にこちらはびっくりしたが、ほほえましく思い、やさしい気持ちになった。母親は少し照れくさそうにしながらも、うれしそうに微笑んでいた。赤ちゃんも笑っていた。観音さまも微笑んでいた。みんな笑っていた。

観音堂を出ると甘茶が振舞われていた。お釈迦様の誕生祝のおすそ分けを頂く。ほっと一息。幸せな昼下がりである。

ところで当寺には、珍しい竹の一管造りで、聖母マリアのような優しい表情と言われる「竹観音」がいるのだが、拝むのをすっかり忘れて寺を後にしてしまった。出逢いの縁というものはこういうものかもしれない。今まで、出逢える筈の人とほんのわずかなことで出会えず、すれ違ったりしたのだろうな、と思った。一息つき、また新たな出会いを求めて巡礼は続く…。


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第四番 長谷寺 ~安心~

江ノ電の線路を跨いで直進。暫らく歩けば長谷寺が見えてくる。ここは何度か訪れているが、ご本尊には毎回驚かされる。9.18mの十一面観音は木彫の仏像としては日本最大級。この黄金の巨大仏の前に立つと言葉を失い、信仰心の薄い自分でも思わず手を合わせてしまう。

参拝を終え、境内の見晴らし台から由比ヶ浜を眺めつつ考える。今日これまで詣でた寺では、それぞれに何かしらの気づきがあった。もっとも自分はあの世の声が聞こえるという種類の人ではないので、生きていく上でこうしたらもっといいんじゃないか、という気づきがあるという程度である。

しかし、長谷寺では特に何も浮かばなかった。ただ…自分は日頃色々な人に守られながら生きているんだ…という普段はあまり感じない大きな安心の気持ちを抱いていた。それは、この巡礼はここで終わりでもよいと思えてしまうほどの落ち着いた気持ちであった。だが、もちろんまだまだ巡礼は続くのである。今後の道中を考えると多くの不安を感じざるをえないのだが…。

しばらく海を眺め、本堂に軽く一礼してから長谷寺を後にした。まだ残る桜の花が優しく、おつかれさま、と言ってくれているようだった。


一日目 鎌倉駅~杉本寺~(報国寺)~岩殿寺~安養院田代寺~長谷寺~長谷駅 (徒歩14km)


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第三番 安養院田代寺 ~礼節~

しばらく歩き、小坪から材木座に抜ける。安養院に着くと正午をやや過ぎていた。門の所に12時から13時昼休み、とある。一時間弱をどこかで潰すのも退屈である。お願いすれば昼休みでも御朱印を頂けるだろうか、と一瞬考えたが、すぐ考え直す。大変失礼なことを考えてしまった。自分勝手にも程がある。反省。

一旦鎌倉駅に出て昼食。一服していろいろと考える。自分にとっても有意義な昼休み。いや、休みというよりもこれもまた修行なのだと思う。待つのも修行。気づきを与えられたことに感謝、である。

再び安養院へ。北条政子ゆかりのこの寺は、政子が源頼朝と結ばれることを観音さまに願い成就した故事に因んで、良縁を祈る参詣者が多いらしい。そう言えば、元々安養院と田代寺という二つの寺がひとつになったのも縁結びと言えるかもしれないし、本堂に観音さまと阿弥陀さまが前後に並んでいるのも仏様同士の良縁に見えてくる。自分も何か良い人との縁が欲しいところだが…今は現実的な縁よりも、自分を高めてくれる出会いがあることを望みたい。まだまだ勉強不足故。

ここは鎌倉きってのツツジの名所だそうで、見頃は4月下旬から5月上旬らしい。またの機会にツツジが咲き誇る花の寺を訪れてみたいと思う。
清々しい気持ちとなって、この日の最終目的地へと向かう。

第二番 岩殿寺 ~快哉~

杉本寺で頂いた札所めぐりの地図に次の寺までの道のりが書いてあり、さくら道という名の道路をバスで行くらしかった。距離はあるが歩けないことも無さそうである。4月の初めであり、まだ桜も残っているかもしれなかったので歩いてみることとする。

さくら道に入ると、そよと吹く風に薄桃色の花弁が舞い散っていた。満開の桜も美しいが、散り際もまた風情がある。時折強く、また優しい表情を見せる春風に吹かれながら、岩殿寺へと歩を進める。

寺は閑静な住宅街を抜けた所にあったが、趣は深山幽谷を感じさせる。古い山門を潜ると石段が続き、かなりの数と思われたが、困難を乗り越えて行くところが巡礼らしい。喜びを噛み締めつつ一段ずつ登って行く。山上に着くと観音堂、裏手に回ると十一面観音が安置される岩窟があり、寺名の由来となっている。

帰り道、ふと遠方に目を遣ると、逗子の海を眺めることが出来た。良い眺望を得ることが出来たのは、長い石段を登ってきたから。苦労した後の喜びはひとしおである。近年、癒しや安らぎを求める人は多く、そのこと自体を否定するつもりは無いが、快さというものはそれなりに汗をかいてこそ得られるものだと思う。

参拝を終えると巡礼者に道を尋ねられた。分かる範囲で教えて差し上げたが、人様の役に立てるということは嬉しい事である。岩殿寺での巡礼は、喜びとは、幸せとは何かということを考えさせられた。学ぶことの多い旅であることを感じつつ、再度鎌倉の寺を目指す。


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番外編 報国寺 ~洗心~

第一番の次がもう番外編の寄り道。いったい三十三ヶ所回るのにどれだけ時間がかかるのだろうか。しかもこの日は鎌倉駅を起点として、札所を徒歩で回れるだけ回ろうと思っていたというのに…。しかし、そこは古都の風情あふれる鎌倉。少し位の寄り道は許して頂くとしよう。

で、報国寺。金沢街道沿いには由緒ある古刹が点在するが、竹庭が有名なこの禅寺はぜひ訪ねておきたかった。本堂の裏手にある孟宗竹の竹林は、規模も美しさも鎌倉随一。竹林を吹き抜ける優しく清々しい風をひとり感じていると、日頃悩んだり、思いあぐねていることが無意味に思えてくる。余計なことは何もいらない。本来の自分自身であれという禅の教えを、自然が教えてくれているようである。

このように自分を取り戻すことが出来る場所は貴重である。もっとも、本来は普段の生活の中で、随時自分自身でいられればよいのだが…。

しばらく何も考えずに佇み、また静かに歩いていると、気持が晴れてきた。明日も頑張ろうと思える今日一日を送ってゆきたい、と普段は考えないことを頭に浮かべつつ、次の目的地へと向かった。


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第一番 杉本寺 ~発願~

「なぜ巡礼を始めたのだろう…。」納経所で住職がさらさらと筆を運んでいるのを見ながら、未だにそんなことを考えていた。

桜も終わりかけの四月のある晴れた日、やっと重い腰を上げて巡礼を始めることにした。坂東三十三観音霊場を巡ってみたい、という気持ちは以前からあったのだが、宗教を持たず信仰心の薄い自分が三十三ヶ所を訪れてみようと思ったのは、忙しい日常から離れたいという思いが強かったというのが本音かもしれない。

ともかく、衝動的に始めてしまった巡礼。第一番の杉本寺で納経帳を購入し、住職に「発願」という印を押してもらう。ここから打ち始め、願を発するという意味であることを説明される。巡礼をする人は、きっと何か強い願いがあるのだろうな、と思い、明確な祈りもなく歩いている自分が少し恥ずかしくなった。もっとも、年頭から抱いている「観音様になりたい」という漠然とした願はあったのだが…。

杉本寺は古都鎌倉最古の寺。その枯れた佇まいからは、訪れるものを優しく包みこむ暖かさと、気持ちを引き締める凛とした空気を感じた。安心感と前向きな気持ちを手に入れた私は、この気持ちが観音様の功徳なのか、などと柄にもなく考えつつ次の寺を目指すことにした。


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