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2005年2月

惺々着

seisei2今の自分に満足出来ない。このままじゃ嫌だ。
…とは思っていても、なかなか変えられないのが自分というもの。

本当に辛いときは、そこから何とか抜け出そうとするから頑張れる。気をつけたいのは、それなりに生きていけてしまう時。漠然とした不安や生きづらさは感じていても、特別に困ったことがなければ向上しようという気持ちもなかなか湧かない。わざわざ産みの苦しみを感じてまで成長しようとは思えない。

しかし。そんなときこそ惺々着。目を覚ませ、自分。傷ついても、へこんでも、現状を打破していきたい。きっとその方が楽しい。

今までどんなときに楽しさを感じたのか、どんなときに自分が輝いていたのか考えてみよう。

せいせいじゃく。目を覚ませ。

第二十五番 大御堂 -是認-

辛かった。情けなかった。なんでいつもこうなんだろう…。
前の寺から筑波山へ向かって歩く道々、自分を責めていた。このペースでは次の寺の閉門時間に間に合わない。今日を逃すとまた何時来られるか分からないというのに。

もう少し早く行動していれば前のバスに間に合ったのに。あそこで道草を喰っていなければもっとスムーズに行動できたのに。今までの人生で、自分の鈍さと無計画な行動の為にどれだけの後悔を重ねてきたというのか。時間に間に合わなかったことでどれだけ人様に迷惑をかけてきたというのか。そう思う度にまた自分を責めた。

巡礼って、もっと心静かに、穏やかな気持ちで歩いて行けるものだと思っていたのに。
今までの自分を忘れて、新しい人生を歩いて行けると思っていたのに。
焦りながら歩きつつ、自分の至らなさを心の底から実感していた。

しかし。今までの人生がそんなに簡単にリセットされる訳はないんだ。
至らない、情けない今の自分を認めて歩いて行くしかないんだ。
そう思うと、少しだけ体が軽くなったような気がした。

閉門には間に合わないかもしれない。でも、とにかく今日出来るだけのことはしよう。
本数の少ないバスを乗り継ぐと霊峰筑波の山麓に着き、ここからは軽く登山の趣。筑波の山は傾斜が急であり、急いで登ると可也息が切れる。しかし、道に迷いながらも登り続けるとようやく山門に辿り着いた。境内に着くと既に納経の受付時間を少し過ぎていた。半ば諦めながら灯りの消えた朱印所の扉に手を掛けると、すっと開いた。

「すみません…。」と声を掛ける。しかし応答がない。「あの、すみません。」と少し大きな声で呼んでみると奥から返事があり、女性の方が出て来られた。時間を過ぎてしまった事を謝ろうと思っていたのだが、出て来られた方が以前付き合っていた人にそっくりだったので、驚いて声を失ってしまった。自分の中に封じ込めていた思い出が蘇って取り乱しそうになったが、やっとのことでご朱印をお願いすると「はい、おつかれさまです。」と優しく応えて下さった。

様々な思いと疲労とで頭の中が混乱して何も言えずに居ると「大変だったでしょう。お体には気をつけて。明日のお仕事に障らないようにね。」と。優しい言葉につい涙が出そうになってしまった。そしてまた、「筑波の山は急でしょう。山を馬鹿にしたら駄目よ。自分一人の体ではないのだから大事にしないと。」と。一言一言が心に染み入る。

もっと色々お話を聞いて示唆を得たかったのが、近所の方の祈祷の支度がある様子だったので、お暇することにした。何だか夢のような時間であった。静かに人々を見守る厳かな大御堂に拝礼する。当寺には祈願石と呼ばれる石があり、手を触れて願いを込めると苦しみを封じ込めるといういわれがある。封じ込めてしまいたいことは山ほどあるが、認めて乗り越えて行かなくてはならないこともまた多い。祈願石には触れず、筑波の山を後にすることとした。しかし、自分は何を認めて歩いて行けば良いのだろうか…。

今日の道行きはどうだったのだろう。こころの巡礼道の過程はどうだったのだろう。いつかまた、あらためて考えたい。気楽な一人旅とはいっても、この身は自分一人のものではない。この巡礼の旅を、そして人生という長旅を支えて下さる全ての方に心から感謝したい。

25oomidou筑波山大御堂(おおみどう)。

第二十六番 清滝寺 -有縁-

巡礼にタクシーを使うなんてとは思ったのだが、土浦から新治村への道は交通手段が限られており止むを得ず乗車した。運転手と、この地の名産の果物や廃線となった筑波鉄道の話などあれこれとする。思えば、この巡礼の旅で人とゆっくり話すのは初めてかもしれない。この辺りは紅葉の時期がいいんでしょうかねと訊くと、方言で良く聞き取れなかったのだが、どうやら、冬の方が空気が澄んでいて眺めが良い、ということらしかった。確かに筑波の山並みは冬空に映えそうである。

26kiyotaki清滝寺に着くと何となく観光気分だった。普段の巡礼では寺に向かう時に気持ちを極めていくのだが、運転手と話をしていたため全く極まっていなかった。息を整え、石段の参道を登り、仁王門を潜ると厳かな気持ちになって来る。観音堂の前に立つと無心となり、日頃の心の喧騒が消え去ってゆく。

朱印所に入ると住職がお茶を飲んでまったりとされており、喧騒とは無縁の様子であった。しかし、御朱印の書を印す時にはきりと真剣な表情に変わり、驚かされた。住職は筆を置くと、書を早く乾かすためにガーとドライヤーをかけ始めたのでまた驚かされた。

次の寺へと向かおうとすると、境内で猫が日向ぼっこをしていた。長閑な心持ちとなって幾分歩くと、寺の駐車場にバイクに乗った上下黒革スーツの若いカップルがバリバリと入ってきた。寺には無縁の二人にみえるが、バイクを止めて何処か観光に行くのだろうか。静寂を破られたなと思い少々残念だったが、男の方が言った台詞を聞いて、ほっとした気持ちになってしまった。

「寺でも見てぐ?」

世の中捨てたもんじゃない。

26kiyotaki2この地は小野小町所縁の土地であり、小町ふれあい広場という場所には小町に関する展示や農産物の直売所がある。此処のそば処にて天麩羅そばとそば寿司6個を食す。注文した時はそばとご飯もののセットを想像していたのだが、そば寿司は茹でたそばを油揚げで包んだものだった。店の人に余程のそば好きと思われただろうか。そばの香と揚げの甘みが程よく合い、良い風味であった。

十分に腹ごしらえをして一服した後、次の寺への長い長い道程を歩き始めた。

把手共行

薬物依存症の回復者の方の話を聞いた。以前は薬物の使用が自分の心身に悪い影響を与えると分かっていながらなかなか止めることが出来なかったが、同じ仲間と体験を語り合うミーティングに参加し続けることによって今は止められている、と。

一緒に止め続けていく仲間がいるから自分も止めていられる、ということなのかもしれないが、仲間との話し合いの中で、相手の話の中に自分自身を見ているのだと思えてくる。

人は、他の人と出会うことで自分自身に出会っているのかもしれない。大切な仲間であるもう一人の自分と共に手を取って、困難なことも乗り越えて強く歩いて行きたい。

hashuはしゅきょうこう。

黒と白・香と心

ランドマークプラザで「かながわ書道まつり」を見てきた。
お目当ては作家の先生の揮毫。「毫」は筆のこと。「揮毫」とは文字や絵を筆でかくこと。つまり書道の実演を見てきたということですな。

6人の先生方が歌や詩、一文字や二文字の大作などの作品を書いてゆくのを見ていろいろと参考になった。筆先だけでよくあんなに太い線が書けるなぁとか、そこでそんなに長く止めるのかとか、人によって味わいがほんとに違うもんだなぁとか、いろいろと。

しかし、人が書を書いているのを見るのはドキドキするなぁ。やり直しが効かない一発勝負である所が好き。ついつい書いてある内容だけに目が行ってしまうのだけれど、先生方は余白の使い方というか、黒と白のバランスがいいなぁ、と思ったり。

終了後に墨の香が会場に立ち、何とも言えぬ穏やかな気持ちに。書が心に与える影響は大きいことを実感。心躍るひと時であった。

kan220「環」

第二十番 西明寺 -成長-

20saimyoujisteps陶芸の里、栃木県益子。真岡鐵堂の益子の駅を降り、田園風景を眺めつつ暫く歩くと長い石段に辿り着いた。上りきると六百年の歴史の重みを感じる楼門。近くに建つ三重塔は急な傾斜の屋根が独特の美しさを醸し出す。銅板葺の見事な屋根の観音堂は趣深く、静かな古刹にて過ごす時間を持てることに感謝の念が湧き出ずる。

此処に来れば見逃せないのは閻魔堂。扉の小窓から中を覗くと薄暗い御堂の中におわすのは「笑いの閻魔」。閻魔様が大きな口を開けて笑って居られるのは苦しんでいる人のためだそうである。死した後地獄に落ちようとも、大笑いしている閻魔様にお会いすることが出来ればあの世で元気に生きてゆく希望が湧いてくることだろう。

20saimyoujimap御堂で妄想した後に閻魔様に別れを告げようとすると、御堂の左奥の隅に人影が。よく見ると色褪せた像のようであった。暗闇の中で目を見開き一点を見詰めている像。怖い。怖すぎる。後で案内板の解説を見てみると、「奪衣婆」とあった。ああ、三途の川を渡る時に死者の衣類を無理矢理全部剥ぎ取るというお婆か。怖いはずだ。もっとも笑いながら服を脱がされたら余計怖いかもしれないが。これまでは閻魔様に怖ろしい印象を持っていたが、本当に怖いのはお婆で、閻魔様はフォロー役であるように見えてきた。

死んでからあの世に行って、生前の行いを咎められ叱られてばかりでは、かなり凹んでやる気を無くすだろう。怒られたり、優しくされたりしながら反省して成長してゆくのかもしれない。教育はいつの世もあの世でもアメとムチということか。

一息つき、境内を後にしようとしてふと楼門の屋根の上を見ると、何かの新芽が茅の隙間から大きく開いた空に向かってひうっと伸びていた。20saimyoujipagoda

ある日、丘の上から

いろいろな思いに囚われて落ち込み気味だった。
いろいろ考えても仕方ないので、走ってみることにした。
坂を上り、階段を駆け上がり、何も考えずにただただ走った。

丘の上まで走り、港町を見下ろすと、人が砂粒くらいに小さく見えた。
人ってこんなに小さかったんだ。自分もこんなに小さいんだろうな。
こんな小さな人がいろいろ思っていることなんて、ちっぽけなことなんだろうな。

ゆっくりひとつ深呼吸をして坂を下り始めると、自分が少しだけ大きくなった気がした。

時時勤払拭

んー。不調だ。精神的に。まいってる。

仕事上のミスと、それを責められたことと、守ってくれると思っていたひとの裏切りと、守ってくれると思っていた自分の甘さと、人のミスを自分のせいだと思われたことと、そのことを正せなかったことと、その他もろもろで。あんまりあれこれ気にしない性質なんだけど、やっぱりいっぺんにいろいろ重なるときついな。

ストレスの解消にはいろいろ方法があるけど、きつい時は何かをする気も起こらない。

とりあえず寝てみる。せっかくだからいい睡眠が取れるような努力はしてみよう。

人生には悩みやトラブルはつきもの。どう対処すればいいのか考えていこう。

ストレスがあることを認めて、なるべく溜めずに払拭したい。

ziziじじにつとめてふっしきせよ

明珠在掌

昨年受験した資格試験の結果が郵送で届いていた。

結果は…一部合格、と。学科試験は合格。しかし実技試験は不合格。

あらら~。まぁ簡単じゃないと思ってはいたけれど。でも、予想は実技合格で学科不合格だったんだけどな。んん、予想と結果とは往々にして違うものか。まぁ、時間をかけて勉強した学科の方が良い結果が出たから、報われたというところか。実技の方はなめてかかって準備不足だったかな。次回の受験はどうするか考えよう。今の仕事上どうしても必要な資格という訳ではないのだが。

なんというか結果は残念ではあるんだけど、今の気持ちは、資格を持っていない素のままの自分の価値を認めて、高めていこうというところ。負け惜しみ?正当化?いや、正直なところ、資格を持っているということにアイデンティティーを求めていたところがあって反省。資格を持っていない自分にだって意味があるのだ。

肩書のない今の自分の価値を見出そう。そのままの自分が輝けるように努力をしてゆこう。人は誰でも、すでにその手のなかに素晴らしい宝物を持っている。

myozyu2みょうじゅたなごころにあり

第二十三番 観世音寺 -架橋-

23kanzeon笠間焼や笠間稲荷で名高い街を暫し歩き、小さな山門を潜るとその瞬間から霊場となった。

静かな境内には龍頭観音や延命地蔵などが並ぶ。本尊の千手観音は四月十七日のみの御開帳であり、この日は拝むことは出来なかった。扉の向こうの観音様に思いを架け渡し、本堂を後にする。東大寺の三月堂を模した総檜造りの観音堂の建立を計画中とのことであり楽しみである。

次の寺へと向かう道中で何度も道に迷い、なかなか目指す所に辿り着けなかった。気が付けばまた同じ所を歩いていたりして、不思議な気持ちであった。そういえば時折誰かの視線を感じたような気がしたが、もしかするとお狐様が…。

雲収山嶽青

kumoosamarite4くもおさまりてさんがくあおし。雲が消え去って青い山の姿が現れる様。悩みや雑念が去って、本来の自分の姿、やるべきことが見えてくるといったところかな。かなり好きなことば。

今度の展覧会に出す作品のお題はこれにしようかな、と。「一華開五葉」や「紅炉一点雪」も素敵なので書いてみたいけれど、会の開かれる季節に相応しいのは「雲収山嶽青」かな。今の気分にも合っているし。

スッキリしたい、本当の自分に出会いたい、という願望の表れでもあるかな。心に雲がかかって自分が見えていないということかも。ん~、思考のパターンとかスキーマとか…チェックしておこうか。心の雲は自分で消し去る努力をしないと、自分の良い色が現れて来ないもんなー。

本当の自分に出会うために、書に励んでみようかな。


※画像の書体は行書。見る角度によって字が消えたりしちゃうのだ。

鬼冥利に尽きまっせ

職場の近くの保育園から、節分の行事の鬼役をやってもらえませんか、と依頼があった。そんなことなら喜んでと引き受け、演じてきた。

いやぁ、こどもはいいねぇ。特に学齢前の子は素直でいいよ。「うおーぅ!」と声をあげて近寄ると「ぎゃああああっっっ!!!」と素晴らしいリアクション。もう、鬼冥利に尽きまっせ、ほんまに。「悪い子はいないかぁっ!?」と迫ると「いませんいませんいませんいませんっっっ!」って。壊れるんじゃないかと思ったよ。トラウマになったらかわいそうなので、程々のところで「うわぁ~。豆を投げないでくれ~。いたたたたっ。」とかなりクサイ芝居で退散。お子たちの思い出になったかなぁ。

鬼の衣装から着替えてそっと園内をのぞくと、お子たちが先生の指示で、落ちている豆をけなげに拾っていた。むむ。鬼よりも先生の方が怖かったりして…。

ついついこちらも夢中になって楽しんで鬼やっちゃいました。ありがとう、お子たち。

…あら?「悪い子はいないかっ!?」はナマハゲのせりふだったっけ?まいっか。

無常迅速

辛いことや悲しいことがあると、きっとこのことは自分の成長の糧になるんだ、と言い聞かせてきた。そのことは間違っていないと思う。楽しいことばかりでなく、いろいろと辛いこともあるのが豊かな人生だ。

でも。これまでの人生に無駄なことはないんだ、と思い込もうとする癖が付いてしまっていた。無駄に過ごしてきた時間さえも自分を成長させているんだ、と思い込もうとしてしまっていた。

しかし。無駄は無駄なんだ。のんびりしたり、ぼーっとするのがいけないという訳ではない。その時にやらなきゃならないことをやらないで、無為に過ごした時間は無駄だ。そのことを正直に認めよう。

人生は本当にあっという間。人間なんてすぐ死んじゃうんだ。死んじゃうから、生きてるうちはしっかり生きるんだ。むずかしく考えなくてもいい。一日、一瞬を大切に、自分らしく過ごすんだ。

muzyou2

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