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2005年3月

第十九番 大谷寺 -盤石-

19ooyazi1大谷石で知られる栃木県大谷町にある天開山大谷寺。宇都宮からバスに乗り大谷観音前で降りると、周囲は石切り場や岩肌あらわな山が連なり非日常の光景。仁王門を潜り受付で拝観料を払って中に入ると、大谷石の岩窟にはまるようにして本堂が建っており、その眺めに驚かされる。本堂に入ると、本尊の弘法大師作と伝わる磨崖仏の千手観音像。像高約5米、左右42本の手を持つ像は日本最古の石仏と伝えられる。薄暗がりの中に立つ観音像は神秘的。礼拝し、脇堂へと移る。

脇堂には、阿弥陀三尊、薬師三尊、釈迦三尊がやはり磨崖仏の姿でおわす。平安時代から鎌倉時代の作と言われ、国の特別史跡や重要文化財に指定されているようだ。仏像の前で祈りの歴史を感じていると、団体旅行らしい高齢の方々がどやどやと脇堂に入ってきて、へぇ、ほぉ、などと言いながら写真を撮ろうとしていた。ここは写真撮影禁止なのだが、そのことをこちらからは言いづらく、分かっていながら止めてさしあげることが出来ない自分に腹を立てていると、その時。天から声が聞こえてきた。「…写真を…撮らないでください…」と。わわっ、観音様のお声が、と驚いたがどうやら堂内放送のようだった。しかし、団体の方々が写真を撮ろうとしたのが何故分かったのだろうか。堂内を見回すと上の方に監視カメラらしきものがあった。おそらく堂内の様子は寺の方に見えており、禁を破ろうとするものが現れると、注意を促す放送を流すのだろう。観光であっても参拝には規律が必要である。自分も観音様の声で直々に怒られる感じを味わってみたい…と一瞬思ったが、そのために規則を破るのも間違いである。しかし、そんな事を思った自分がちょっと可笑しかった。

昔に比べれば、今は個人の自由が許される世の中。それだけに、自分で自分を律することが出来なければ堕落していくだけだ。巡礼者はいつも心に観音様を感じているのだろうか。自分はまだそういう気高い心は持てないが、俗っぽい自分、いつも何か隠し事をしているような自分、認めたくない過去を持っている自分…いろいろな自分がいることは認めていこう、と思った。

次の目標へと向かう道すがら、大谷の街には「盤石」という名の付いた食堂や宿があった。経営が安定していそうで安心感のある名だ。店に電話をしたら、厳かな男性の低い声で「はい。盤石でございます。」と言って欲しいな、などと勝手な空想をしつつ石の街を後にする。巡礼者はこの街で盤石なる「意思」を確認するのかもしれない。信仰ということからは縁遠い自分ではあるが、この世を生き抜いていく強く堅固な心は持っていきたい。

19ooyazi2前立の平和観音

第十六番 水澤寺 -深奥-

16mizusawa1伊香保温泉の程近くにある古刹、五徳山水澤寺。二百年以上前に再建された仁王門は、力強く優しく訪れるものを迎えてくれる。門を潜り石段を登ると観音堂。右手に六角二重塔があり、塔内で参拝者が歩きながら回っている。近づいて見てみると、六地蔵を安置する輪蔵を押し回して供養を行うようになっているようだ。

16mizusawa2塔内に入り、輪蔵を押しながら歩いてみる。ぐるぐると回りながら歩くと、気持ちが軽くなってくるような気がする。普段の巡礼時、御堂の前で静かに思いを馳せることはあっても、体を動かしながら何かを想うということはあまり無い。動と静の相乗効果か。行動療法のようでもあるななどと思いつつ回しつづけるが、あまり回りすぎると癖になりそうだったので程々の所で塔を出る。

16mizusawa4思い出したように観音堂へ進むと、格子戸から内陣の前立本尊を拝めるようになっている。観音様のお顔は如何様、と思い拝ませて頂くと、一瞬、かなり驚いた。観音様と目が合ってしまったのだ。明らかに、私の方を見ていた。どうしていいか分からず、思わず下を向いてしまう。暫く思案の後、少し立つ位置を変えて改めて拝むと、、、やはり角度を変えてもこちらを見ていた。やさしく微笑むというよりは理知的に人の心の底まで見つめるようなその眼差しに、さすがに怖さに似た感情を抱き、視線を外して礼拝する。畏怖というのはこういうことか。

16mizusawa3深々と拝礼し、御堂を後にする。自分でも認識出来ない心の奥底まで見られてしまったような気がして怖かったが、何故か故郷に帰ったような安堵感もあった。冷静になって自分の心の奥を見つめてみることで本当の自分を取り戻すことも必要だ、ということなのだろうか。巡礼の旅は、本当の自分に出会う旅なのかもしれない。

近年建立された釈迦堂を覗いてみる。釈迦三尊像や二十八部衆、十一面観音像や円空作の阿弥陀如来像が居り、仏教の世界には本当に多くの仏様が居られることを実感する。印象に残ったのは、妙に小さい剣を持った持国天、「えっ?俺?」という表情で自分のことを指差す婆藪仙人、頬の下がり具合が大滝秀治に似た魚籃観音など。我々はこれほど色々な方に守られて暮しているのか、などと思ってみると感謝の気持ちが湧いてくる。狩野探幽の掛軸を見てほほうと思ったりした後、寺を後にする。

次なる目標に向かう前に一息入れようと伊香保温泉に立ち寄る。露天風呂に入ると、思いがけず湯の温度が低く、体が殆ど温まらなかった。体も心も休まることはなかなか無いものだなとは思ったが、この旅を続けてくる中で次第に自分が自分を認めることが出来るようになってきたことを思うと、心の方は少しばかり温かくなった。

第十五番 長谷寺 -漸進-

15siraiwa.a高崎から群馬バスに乗り、ドドメキで下車。ドドメキって百目鬼のことだろうか、怒止鬼だろうか等と考えつつ暫く歩けば榛名山麓の修験の寺、白岩山長谷寺。山号の由来は、修験の行者がこの地の南に在る烏川から白い岩を運ばせて修行の場を作ったという伝説に基づくとか。境内の観音堂は唐破風が美しく、向拝も彩色鮮やかである。法要中により堂内には上がれず戸越しに中の様子を窺うと、前立の十一面観音が威厳に満ちたお顔でおられた。御堂の外から礼拝しし後に御朱印を戴き、長谷寺を後にする。

15siraiwaまた一つ目的を果たし、次の目標を目指して歩きはじめる。しかし。なぜ自分は様々な困難を感じつつも歩き続けているのだろう。そこに道があるから?むむ。それでは何か納得出来ない。何か大切なことを見出すため?それはそうだが、漠然としているような気が。考えているうちに、意味などあまり考えないことにした。意味を感じなくても歩き続ける。今はそれでいい。

困難を感じるのが嫌なら巡礼の旅などしない方が楽である。しかし。平穏無事で楽な人生がいい?苦しむなら生まれてこなければよかった?そんなことはない。筈。…ってまた考えている…。少なくても、色々と考えながら成長できる喜びはある。筈。

まだまだ続くこの旅路。一度始めたら逃げ道はない。立ち向かっていくのみ。少しずつでも前進していることに自信を持って歩いていこう。

身を切るような冷たいからっかぜが吹きつける中、次の寺へと向かった。途中、蝋梅が花をつけていたので匂いを嗅いで見たが、風に乗って鼻孔をくすぐるのは田園の堆肥の匂いのみであった。そして、まだ、旅の途中。

15siraiwa.n

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